2009年8月30日日曜日

TSRの肖像 ものづくり日本へ(へら絞 調布市 深大寺)


 選挙も夏も終盤、週末の東京は大変暑い1日となりました。
 午前中、買い物がてら久しぶりにパシュレイTSRに乗って出掛けました。家内と一緒に出掛ける時は何時もブロンプトン。よってこの日は朝からパシュレイに乗ってみたかったのです。

 此処は三鷹市の隣、調布市 深大寺です。トタン板の建物が前から気になっていた“金属へら絞り”の「小野製作所」まで行ってみました。

 金属のへら絞りについて詳しい知識はありませんが、へら絞りとは円盤のような円い金属板を回転させて“へら”を使って金属板を金型の形に塑性、成形する金属加工です。以前、見本市でへら絞りの行程を記録したビデオを見る機会があり、少し原始的な加工方法にも映りましたが二次元の平たい板から三次元の物が出来る様子は正に手品を見ているようでつい見入ってしまいました。

 このような小さな加工所が調布市内にどれだけ在るのか分かりませんが、東京には大田区をはじめ、画一化された大企業には真似する事が出来ないユニークなアイディアと優れた技術を持った職人がいる中小の工場が沢山あります。しかしご存知の通り昨今の景気低迷の煽りを受けて何処の工場も生き残りを賭けた厳しい状況が続いています。

 久しぶりにパシュレイの自転車に乗って改めてこの自転車の素晴らしさを感じました。走る事が本当に楽しい自転車、パシュレイTSRに乗るとどこまでも走って行きたい気分になります。
 パシュレイの一番の美点は鉄で出来た堅牢なフレームです。そしてこのフレームワークがあってこそモールトンのサスペンションが機能するのだと思います。一方でフレームの銀ロウ付けは御世辞にも上手とは言えません。日本人のフレームビルダーが作る自転車の方が恐らく仕上げは綺麗です。しかし、TSRのような手間の掛かる自転車を未だに作り続けることが出来るパシュレイ、そしてこのような自転車メーカーが成り立っているイギリスという国にとても心が動かされます。

 ある自転車店で日本の大手自転車メーカー ブリヂストンにはフレームビルダーが今ではわずか1人しか残っていないと聞きました。学生の頃、ブリヂストンの自転車に乗っていただけにこの話は衝撃であり、やるせない気持ちになりました。


 ものづくり日本と言われていたのは何時頃までだったのでしょう?効率化という名の下で要領よく上手にやれる者だけが生き残れる社会、ものづくりすることが出来ない国。残念ながら日本は暗雲垂れ込める状況にあると思います。

2009年8月25日火曜日

Broの肖像 ’09夏への想い(野川サイクリングロード)


 ぽつぽつと降り出した雨の中、気分転換に2人でブロンプトンに乗って野川公園まで出掛けました。
 
 野川サイクリングロードを走っていると手入れの行き届いた綺麗な庭のお宅がありました。家内のリクエストにより、こちらのお宅の前を拝借してBici Terminiから届いたばかりのnenのショルダーバックと一緒の写真を撮ることにしました。
 このバックは少し早い家内への誕生日プレゼントです。Bici Terminiのブログ記事を家内と眺めながら迷った末に、マスタードという色を選びました。
 nenのショルダーバックはナイロンと革の意外な組み合わせが実用的であり、とても洒落ています。如何にも自転車用というバックとは一線を画しているのです。何よりナイロン生地の質感が優しく、バックの目方が大変軽いことは特筆に値します。
 巷で自転車ブームと騒がれて久しいですが、バックに限らず自転車関連用品というのは一見本格的な体裁をした似たようなモノが未だに多いです。ユニ隠さない格好で何処へでも出掛ける私の話では説得力がありませんが、特に小柄な日本人女性に似合うモノとなると選択岐は少ないように思います。その点、nenのショルダーバックは日本人の女性が自転車用のショルダーバックとして無理なく使え、そのまま街中でも使える。日本人女性の生活に即した合理的なバックだと思いました。家内はこのプレゼントをとても気に入ってくれました。


 家内のブロンプトン(M3L)には残念ながらダイナモライトが付いていません。今まではKnog(ノグ)の小さなLEDライトを使っていましたが日没が早く、夜が長いこれからの季節は正直心許なく、もう少し明るいライトがないか探していました。
 少し前、やはりBici Terminiのブログに気になるライトの情報が出ていました。暫くしてwembleyさんがその気になるライト(AKSLENのHL-90)をいち早く購入されて、ブログに記事が掲載されました。その内容を拝見して、これはやはり良さそうだ!と確信をして今回、nenのショルダーバックと一緒にAKSLENのライト、HL-90も注文しました。
 AKSLENのHL-90、性能の割りに価格が安く、ちょっとディズニー映画のウォーリーに似たとても愛らしいデザインのライトです。
 庭先に咲いた可憐なルリマツリの花を背景にHL-90を撮りました。私はイメージカット専門ですので、このライトの詳しい内容はwembleyさんの丁寧な記事をご覧ください。(因みに折り畳みの際にはライトを外す必要があります、これはちょっと残念)

 野川サイクリングロードを西へ向かって暫く走っていると雨もあがり、太陽が顔を出しました。まだまだ蒸し暑い夏と思っていましたが田んぼには既に立派な稲穂がたわわに実っていました。
 ここは毎年6月頃になると平家蛍が放される所でもあります。その光は源氏蛍とは異なり何処かはかなげで、それでいて品性があります。昨年、この田んぼで平家蛍を見てとても好きなりました。


 夏休みも終盤になってくると気のせいか、川で遊ぶ子どもたちの姿は少ないように感じます。ザリガニでも探していたのでしょうか?少年が1人で真剣に網で川の中をすくっていました。おーい、宿題は済んだのか?と他人事ながら心配になりました。
 野川サイクリングロードは野川公園に入るとご覧のような砂利道になります。日曜日なのに人が少ない、やっぱり皆、夏休みの宿題に追われているのだろうか?何だかさっきの少年のことが気になり、そして私自信の事も心配になってきました。そうだ、俺もまだ原稿を仕上げていないんだ!


 野川公園内を流れる野川は緑に囲まれて一層雰囲気が良く見えます。公園内には幾つか橋が掛かっており、橋の上から眺める川の景色は何時までも眺めていたいと思えます。夏に伸びた草が鬱蒼としていますが右岸は既に刈られた後のようです。そして恐らく左岸も草刈りが行われるのでしょう。左右の草が綺麗に刈られて、太く茶色い2本の線が向こうまで続く野川の風景を想像すると夏の終わりを感じて少し寂しい気分になります。

2009年8月22日土曜日

Broの肖像「洗濯船の秘密」(井の頭街道)


 今までは気にも留めていなかったのに何故この日この建物が気になったのか、自分でも良く分かりませんが、突然目に飛び込んできた初秋の太陽光に照らされた青い建物と青い空、はじめは建物ではなく、この光と青の色に反応したのかもしれません。


モンマルトルの「洗濯船」

 この長い建物を見て「洗濯船」という言葉が不意に浮かびました。「洗濯船」は20世紀初頭、まだ無名だったピカソやモディリアーニ等、その後大成した多くの芸術家がこの建物に住んでいたことで広く知られるようになったパリ、モンマルトルの丘に建っていた(1970年に火事で焼失)安アパートの名称です。ちょっと乱暴な例えですが、フランス版のトキワ荘と言えばイメージがつかみ易いかもしれません。

 「洗濯船」とは詩人のマックス・ジャコブが細長い長屋風の建物を見て、その姿が当時セーヌ川沿いに繋留されていた「洗濯船」に似ていたことから名づけたものですが、果たして「洗濯船」とはどのようなものだったのか?モンマルトルの「洗濯船」については知っていてもセーヌ川の「洗濯船」については今まで良く知りませんでした。


セーヌ川、両替橋の辺りの「洗濯船」 19世紀

 仏文学者、鹿島茂の著書「パリの秘密」にセーヌ川の「洗濯船」について書かれたものがありました。それによると、「洗濯船」は15世紀末に始まり、20世紀の初めまで存在したセーヌ川で洗濯をする人達が使った船上の洗濯場(有料の貸しスペース)だったようです。この時期のパリはまだ上下水道の設備が整っておらず、パリ市民は皆セーヌ川の土手で洗濯を行っていました。そのような状況で屋根をつけた平底船の船縁(ふなべり)に沿って洗濯台とベンチを並べ、小柱で区画が区切られた簡素なつくりの「洗濯船」が登場しました。


パリ、ケ・ド・ブルボン通り沿いの「洗濯船」 1910年

 「洗濯船」は風雨を防いで洗濯が出来るということでパリ市民の人気を得て、18世紀末には80隻もの「洗濯船」がセーヌ川の土手を埋め尽くすようになっていたと言います。また利用者の数と比例するように同業者も増加し、競争が激化した結果、1階が洗い場、2階には洗い物を干すことが出来る2階建て等、様々なタイプが登場しました。
 20世紀に入ってパリにも家庭用の上下水道が完備するようになると「洗濯船」の利用者が急速に減っていきました。第二次大戦中、ナチスドイツの占領下の1942年に最後の「洗濯船」が廃船となり、パリの名物であったセーヌ川の「洗濯船」はその歴史を閉じる事になります。皮肉な事にマックス・ジャコブがモンマルトルの安アパートに「洗濯船」と名付けたことで「洗濯船」という言葉は広く知られ、今日まで残ることになったのです。



 井の頭街道沿いに建つおよそ20メートルの長い建物は、表へ廻ってみると「武蔵野塩田屋」という酒屋さんでした。

 この長い青い建物から始まった「洗濯船」がモンマルトル経由でセーヌ川の「洗濯船」に到達するとは自分でも思いもよらない展開でした。カメラを持って自転車で街へ出掛けると思わぬ発見があります。カメラと自転車の組み合わせは私にとって水脈を見つけるダウジング・ロッドのようなものかもしれません。

2009年8月17日月曜日

ひつじ雲


 今年の夏は本当に梅雨が終わっていたのか?と疑うくらい東京は雨や曇りの日が何時までも続きましたが、お盆休みも終わりになってようやく夏らしい太陽が顔を出しました。
 ふと空を見上げると夏というより秋の空。暦の上では立秋を過ぎて既に秋ですが、少しばかり寂しい感じがしました。


 家内と久しぶりに井の頭公園の散歩を楽しみました。
 お盆休みの影響なのか何時に比べると井の頭公園にも人が少ないように感じました。お叱りを受けるかもしれませんが、大型連休に盆暮れ正月は東京人が本来の生活を取り戻せる安らぎの一時だと言えます。


 家内が行きたい所があると言うので後を追って東急デパートの裏の方、中道通りを西に入って行きました。吉祥寺駅から少し外れたこの辺りは女性が喜ぶような小さなお店が沢山ありますが、お店の入れ替わりも激しいように感じます。最近ではちらほらとこのような空き地も見掛けるようになりました。


 ドーナッツ屋さんがお目当てだったようです。家内の話では何時もは列に並んで買わなければならない評判のお店とか?お客さんが少ないお盆休み中に来てみたかったそうです。正直、何でこんな・・・と思いましたが、ロシア人と日本人は並ぶことが好きなようです。(今やロシア人も並ばないのかな?)で肝心なドーナッツのお味の方は?私は並んでまで買わないです。「30過ぎたら揚げ物はいかん!」とキングカズにも言われてますから(笑)

2009年8月14日金曜日

Broの肖像「茶房 はけの道」(小金井 念仏坂)


 小金井の人々が「はけ」と呼ぶ国分寺崖線(こくぶんじがいせん)の下からは湧き水が出ていることを以前にも何度か記事に書きました。また「小金井」とは、この辺りが太古より水の豊かな土地であったことから「黄金の井戸」と呼ばれ、このことが「小金井」の名前の由来と言われています。

 前回紹介をした坂を下った薬師通り沿いに「茶房 はけの道」という国分寺崖線の湧き水で淹れた珈琲が飲める小さな喫茶店があります。珈琲に使われる湧き水は「東京の名湧水57選」にも選ばれ、大岡昇平の小説「武蔵野夫人」の舞台にもなった貫井神社の湧き水を使っています。湧き水で入れた珈琲はとても柔らかい口当たりで身体と気持ちも和らぎ、また量もたっぷりあって、大満足の美味しい珈琲でした。
 珈琲を飲んだ後にサービスで日本茶も淹れて頂きました。この日本茶は旨味、渋み、苦み、3つのバランスが大変良く、最初に飲んだ珈琲の味が霞んでしまう程 絶品の味でした。珈琲豆や焙煎方法にもよるのだと思いますが、この湧き水と日本茶の相性は大変良いように感じました。

 「茶房 はけの道」の外観は一見普通の住宅です。よってお店へ入ることに少し勇気がいりますが、入ってしまえば大変和やかな雰囲気です。店内は大人5、6人も入れば一杯になってしまう程の大きさで、既に常連と思しいき4、5人のお客さんが寛いでいました。日本茶のサービスと共にお茶菓子も一緒に出てくることにも驚きました。喫茶店というより、感じの良い女将さんの人柄に惹かれ、ご近所のお茶飲み仲間が集うサロンという感じです。同席させて頂いたお客さんからこの辺りのお話等を伺いながら私達も楽しく休憩することが出来ました。


 「茶房 はけの道」の斜向いに途中から未舗装になる狭い路地あります。ここから先程来た崖の上の方向へ再び上がって行くことが出来ます。昔この路地は坂の途中に墓地があって、人々が念仏を唱えながら通ったので「念仏坂」と呼ばれれるようになったそうです。竹薮が迫る狭い路地は昼間でも薄暗く、墓地がなくなった今でもそのような雰囲気が少し残っています。
 「念仏坂」はそのまま崖の上まで行くことなく、この先で急に右へ曲がって前回の坂道と途中で合流しています。昔この辺の農民が崖の上と下を往来するために便利にしていた道だったようですが、恐らく農家が崖の上の土地を売った後、住宅や坂道の正面にあるレストランが建ったことで「念仏坂」の上半分がなくなり、途中で新しい坂と合流することになったと推測します。
 崖の下の畑で穫れた作物を崖の上にある江戸街道(現在の連雀通り)まで農民達が運ぶのどかな情景をブロンプトンを押しながら想像して坂道を上っていきました。「念仏坂」はそんなちょっとセンチメンタルな「残念坂」でもありました。

茶房 はけの道
所在地:〒184-0013 東京都小金井市前原町3-23-2
電話:042-384-9864
営業時間:13時から19時
休日:月曜日


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2009年8月8日土曜日

Broの肖像 「東京サイ苦リング」(小金井の坂道)


 武蔵野を自転車で走ると、坂道が多いことに気がつきます。

 小金井市役所前の連雀通りを渡り南に少し行くと南方が開けた坂の上に出てきます。
 ここは「ハケ」と呼ばれる国分寺崖線の上端部に当たります。坂の上に暫く立っているとこの急な坂道を引っ切りなしに人が上ってきます。JR武蔵小金井駅や駅前商店街へ向かう人達のようです。どうやらこの坂道は周辺の住民にとっては大事な生活道路のようです。  
 坂を下ると東西に走っている薬師通りが通っています。通りを越えて更に南下すると野川が西から東へ(写真、右から左)流れています。


 「東京サイ苦リング」は昨年度(平成20年)に複数の広告賞を受賞したパナソニックの電動アシスト自転車の広告宣伝コピーです。東京の地形断面図を描いたイラストとユーモラスなキャッチコピーで坂の多い東京を分かり易く見せたアイディアが秀逸な広告でした。

 この宣伝のイラスト通り、東京は坂の多い所です。
 武蔵野台地の地形は、古多摩川が西の山地から平野に流れ出した所で運んで来た土砂を積もらせて形成した扇状地で、東の東京湾に向かって緩やかに傾斜した地形が形作られました。
 扇状地に降った雨水は地下水となって伏流して、扇状地の裾の辺りで湧き水となって吹き出して 野川・神田川・善福寺川・石神井川などとなって西から東に流れています。 
 その後、富士・箱根火山が爆発・噴火を繰り返し、その噴出物を堆積させてきました。いわゆる関東ローム層の形成です。
 噴出物は川のある所は流されて堆積せず、流れの無い所には何重にも積み重なって高くなり、更に川の流れ方が変わると、それは崖線として残って現在の様な高低差の大きな地形が形成され、東京に坂道が多い原因になっています。


 上の図は、武蔵野台地を南北方向に切った断面イメージ図です。
 序ですが、玉川上水は江戸時代の初めに急増した江戸住民の飲料水を確保する為に、多摩川の水を分水して疎水を掘り、イメージ図では手前の方(西から東)に水を流し、武蔵野台地の一番高い所にを通すことで最終目標地である江戸城までの落差を確保した水道で、当時の土木技術の高さを示しています。
 この玉川上水を分水嶺として保っている面を武蔵野面といいます。これを境にして南北に大きく下がった面が各一面あり、南側 国分寺崖線を隔ててある面を立川面と呼び、反対の北側を所沢面と呼んでいます。更に南側には府中崖線を隔てて、もう一段低い所を現在の多摩川は流れています。
 以上のような永年の時を経て、武蔵野台地は形成されてきました。武蔵野に坂道が多いのはその名残と言えます。

 道はアスファルトで川はコンクリートで固められ、更に土地も建物で覆われた現在の東京で、最終氷期の特殊な自然環境の頃から複雑な経緯を経て形成された武蔵野台地を想像することは困難です。そのように考えると坂道を上り下りすることは日常で私達が武蔵野台地とコンタクトすることが出来る唯一の場所なのかもしれません。また、電動アシスト自転車ではない自転車で「東京サイ苦リング」をすることは発見のあるむしろ楽しいことのようにも思えてきます。小さな車輪のブロンプトンが頼もしいディスカバリー号に見えてきます。