庭 ファンタスム


 あっという間に連休が終わりました。特に遠出をしたわけでもなく。実家でのんびりと過ごしていました。

 実家にはそれこそ猫の額ほどの庭があってこの時期は新緑が綺麗です。そして写真を撮るようになって以来、この小さい庭は私の被写体であり続けています。
 家族の写真、今は亡くなってしまった祖父母や大叔母の写真もこの庭で撮りました。通称シノゴと呼ばれる割合大きなカメラを大学から借りてきて庭を背景に家族の写真を撮りました。とても懐かしい思い出です。


 エルヴェ・ギベールの「幻のイマージュ」という写真をテーマにして書かれた本があります。(個人的に写真について書かれた本の中で一番共感の出来る作品です)なぜ人は写真を撮るのか?とても繊細な文章で写真について書いた彼、独自の写真論であり断章で綴られた文芸作品です。その中に幾つか家族の写真について書かれたものがあって、中でも母親の写真を撮影した時の話しを書いた「幻のイマージュ」(本の題名でもある)は写真の本質が見事に文章で表現されています。


 なぜ家族の写真を古風で融通の利かない大きなカメラを大学から借りてきて撮ったのか?おそらく過ぎ去ってしまう家族との時間をなるべく鮮明に残して(定着させて)おきたいというはかない気持ちだったのだと思います。撮影した写真は11×14インチ位の大きさに引き延ばしたものが数枚。その他はベタ焼きしたのみ、そのままお蔵入りとなりました。悲しいことに多くの写真は日の目を見ることがありません。


 ギベールの「幻のイマージュ」、カメラのフィルムが巻き上げられていなかったというアクシデントによって、完璧な状況下で撮られたはずの母親の姿は写真に写されることはなかったのですが、写真というのは何時でもそのようなことが付き纏っているように感じます。そして本当に写したいものは写すことが出来ないのが写真なのかもしれません。


 数年前、大叔母が撮ってくれた古い家族写真(何故かA4版程の板の上に写真が数枚貼られて樹脂コーティングされている)が出てきました。おそらく夏休み中に撮られたと思われるその写真には幼い弟や若い母の姿が庭を背景にして撮られています。弟と母の姿と共に庭もどこか若々しいというより隙間だらけの庭とは呼べない空間です。これでも時間を掛けて少しずつ庭らしい姿になってきたのかなと思いながら連休中に実家の庭を眺めました。

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